お寺の裏のシルフィード
1
実家の近くには、お寺がある。普段、そのお寺には誰も近寄らない。これと言った後利益があるわけでもないし、住職さんもいない。よく知らないけど、ほとんど無人のお寺だ。敷地は結構広かったから、小学生くらいの時に遊び場として使っていたけれど、大人の姿なんて見かけたことがなかった。
半分は区民会館として機能しているみたいだが、そんな大層なものではない。一度だけ中に入ったことがあるけど、二十人が入れるかどうか。たまに、消防団が集まって飲み会を開いているらしい。
実家があるところは、ズバリ田舎だ。一番近いコンビニまで自転車で十分以上はかかる。田んぼを見に行く方が、はるかに早かった。
暖かくなると緑色であふれ返り、寒くなると灰色っぽくなる。古き良き、日本風景。とでも言えば、聞こえは良くなるだろうか?
小、中学生の頃はそれが普通だった。けれど、高校生になると物足りなくなってしまった。だから、大学では独り暮らしが出来るところをわざわざ選び、進学した。
ただ、不思議なことに。
長らく実家を離れていると、この景色が恋しくなってしまう。
それゆえに、長期の休みの時はなるべく実家に帰ることにしていた。大学生三年の夏も、長期の休みに入った瞬間、帰省していた。
景色が恋しくなるとは言え、帰って来てからやることなど特になかった。ぼんやりと数分眺めるだけで、満足してしまう。実家に帰ると、ほとんど布団の上での生活になってしまった。
個人的には気に入りかけていた、そんな怠惰な生活を、親は許してくれなかった。口うるさく「少しは動け」と言われ続けたので、とりあえずジョギングを始めた。
朝早くに起きて走ると、気持ちが良い。澄んだ空気と涼しい風が、夏の暑さを忘れさせてくれた。何よりも、家に帰ってから布団の上に転がっても文句は言われない。一石二鳥だった。
走るコースはその日の気分によって変えていた。田んぼを見たければそっちに向かうし、森林浴をしたければ、木々の多いところに向かう。
そして今回は、久しぶりにお寺を見たい気分だった。
家から走って十分とかからない位置にお寺はある。ただ、行くまでにはいくつかの坂を上ったり下りたりしなければならないので、それなりに体力を奪われた。
それらを乗り越えると、最後の難関が待ち構えている。やや急で、やや段数の多い階段だ。
普通に登れば別に苦労することは無い。だが、あえて一段ずつダッシュで登るのだ。スポ根漫画の主人公になれる瞬間だった。息せき切って上りきり、荒々しい呼吸のまま門をくぐると妙な達成感があった。
賽銭箱の目のまえにある段差に座って、おどり狂う心臓が落ちつくのを待った。家に帰ってひと眠りしてから、何をしようか考えていると、なにかが聞こえてきた。
風に乗って耳にまで届いてきたそれは、歌だった。女の人の、歌声。凛としていて、涼やか。どこからか聞こえてくるのかを懸命に探った。たぶん、このお寺の裏側で誰かが歌っている。
招かれているような、導かれているような。そんな不思議な感覚を覚えつつ、お寺の裏側に回った。と言っても、まずは様子を見るため、建物の影から顔だけを出した。
お寺の裏は、少し狭い。人が三人並んで通れるくらいの広さだ。それより先は、高めの崖となっている。申し訳程度に柵はあるのだが、小学生でも簡単に乗り越えられてしまいそうだ。
その柵の手前に、一人の女性がいた。周りを気にせず、歌うことに没頭しているように見えた。
十代後半くらいで、長い黒髪を持った女性。見た目だけで言えば、少女と言っても差し支えない。しかし、何を置いてもその歌声が、彼女に大人びた印象を与える。
覗き見るのをやめて、一歩踏み出した。彼女から五歩分くらい離れた所で立ち止り、全身を耳にして歌を聞いた。
日本語の歌ではなかったので、歌詞は全く分からない。でも、知らず知らずの内に聞き入ってしまう歌声だった。
数分か、あるいはもう少し長い時間、歌は続いた。
歌が終ると、彼女はほっと息を吐いた。風が彼女の髪をなびかせる。
僕はほとんど無意識に、拍手をしてしまった。
彼女は焦った様子で僕の方を振り向いた。目が合うと、彼女の頬が赤く染まっていく。驚かせてしまったみたいで、なんだか申し訳なく思った。だから、「あの、ごめんなさい」という言葉が口を衝いて出た。
目を大きく開いた彼女は、両手を振った。
「いえ、こちらこそ、すいません!」
彼女の慌てぶりが可愛らしかった。一歩だけ歩み寄る。
「隣、ちょっといいですか?」
「え? あ、どうぞ」
そう答えてから、彼女は前を向いた。僕も彼女に習って、景色を眺めた。崖の上から見下ろせるのは、両手で数えられるくらいの民家と田舎特有の広い庭ぐらいだった。
「いつも、ここで歌ってるんですか?」
「いつもと言いますか、先週くらいにこの辺りに来まして。たまたまお寺の裏を見たら、良い眺めだなって気分が良くなってしまいまして。つい、歌ってしまうんです」
彼女は恥ずかしそうにしながらも、ちゃんと答えてくれた。こっちもつい、気分をよくして、続け様に質問してしまった。
「こちらに越して来たんですか? それとも、親戚の家がここらにあるとかですか?」
「えっと、親戚伝いと言いますか。まぁ、そんな感じです」
「じゃあ、その内、帰ってしまうんですか?」
彼女は少し間を空けてから、「そうですね、あと一週間くらいしたら、出ていく予定です」と答えた。
では、少なくともあと一週間は彼女に会えるということだ。
「あの、明日もこの時間に歌ってくれますか?」
彼女は驚いたように僕を見た。そして、はにかみながら答えてくれる。
「私なんかの歌で良ろしければ……」
風が吹いた。
運動以外の要素で上気した顔を冷やしてくれる、気の利いた風だった。
2
一週間はあっという間だった。彼女の歌を聴くだけで、すぐに過ぎ去ってしまった。
朝の早い時間に、お寺の裏で彼女と待ち合わせて、歌を聴く。たったそれだけで、こんなにも幸福感が得られるなんて、思いもしなかった。
可愛らしい声に胸を弾ませる時があれば、悲しい歌声に胸を突かれたこともあった。歌詞が分からずとも、思いが込められているのだけは分かる。
僕はそんな彼女の歌声に、正しく『聴き惚れた』のだ。
歌が終り、一息ついた。僕は少し怖い思いをしながら、彼女に問いかける。
「風子さんは明日、行ってしまうんですよね?」
「……うん。もう、ここを離れないと」
彼女のことについて知れたことと言えば、『風子』という名前だけだ。それ以外のことは、ほとんどよく分からない。聞いてみたが、はぐらかそうとするし、言いたくなさそうだったから、こちらも聞きにくかった。
でも、明日から会えなくなるかもしれないのなら、絶対に聞いておかないといけないことがあった。
「あの、風子さん」
「はい?」
一拍の間を置く。決意は固まった。
「その、連絡先とか、教えて貰ってもいいですか……?」
「え?」
「いや、もしかしたら、二度と会えないかもしれないじゃないですか? できれば、また、ここで会いたいんです」
彼女の表情に影が差し込んだ。やっぱり、ダメなんだろうか?
ほとんど諦めていると、彼女は笑顔をこちらに向けてきた。
「明日の朝、またこの場所で会えますか?」
「え、でも、明日は……」
「いつもより、ちょっとだけ早ければ大丈夫です」
笑顔なんだけど、どこかぎこちない。いや、ぎこちないというよりは、無理をしているような感じだ。暗い表情を少しでも和らげたくて、「わかりました」と答えた。
けれど、彼女に変化はなかった。少しだけ雑談をした後、彼女とは別れた。
思いつめたような表情が、脳裏に焼きついて離れなかった。
翌日、僕はいつもより早く、お寺の裏側にやってきた。
朝焼けに照らされた彼女は、柵に手を置いて、崖を見下ろしていた。その横顔はどこか儚げで、元気がなかった。
「風子さん?」
呼びかけると、彼女はゆっくりと振り向いた。力無く、彼女の唇が動いた。
「私はもう、あなたに会えない」
返事を返すことが出来なかった。喪失感が胸を満たしていく。
「でも、あなたのことが嫌いなわけではないの。ちゃんと、理由があるんです」
彼女は目を瞑って、声を震わせて言った。
「私はシルフィード。風の妖精なんです」
ひどい嘘だ、と思った。
下を向いたら、地面に何かが落ちていった。地面にシミを作ったそれは、僕の涙。数滴こぼれてから、初めて気付いた。
「私達シルフィードは、風に魂を与られえた存在。でも、同じ場所に留まり続けると、魂は失われてしまう。だから、風に乗って絶えず移動し続けなければならない。お寺のような神聖な場所だったら、二週間ほどは留まれるけど……」
彼女だって少しは無理をしているのだろう。声を震わせたまま話している。
でも、どうせなら、ハッキリと断って欲しかった。こういう嘘でごまかすのではなくて、ハッキリと。そうすれば、なんの未練もなく、お別れを言えたはずだ。
彼女が僕の名前を呼んだ。顔を上げると、彼女の目には涙が浮かんでいた。何がそんなに、悲しいのだろうか。
「私の手を、握ってみて?」
彼女は静かに右手を差し出した。僕はその手を掴もうとしたが、彼女の手に触れることはなかった。すり抜けた右手を見つめる。見えるんだけど、彼女に実体はない。
言葉を発することが出来なかった。
「私はあなたに触れない。私は、『風』そのものだから……」
彼女の頬を涙が伝った。それを拭おうとして手を伸ばしたが、無意味だった。
彼女の言葉を、ようやく信じることができた。
「私達シルフィードには、こんな言い伝えがあるの。『シルフィードを思い続けて一生を終えた人間の男は、シルフになることが出来る。そして、愛するシルフィードと永遠の時を過ごせる』って、言われてる。でも、誰も確認したことはない。シルフになった人間がいたという話は、聞いたことがない」
何かを言わなければ、何かを伝えなければ。そう思ったのに、声が出せなかった。
「私はあなたに歌を聴いてもらえて良かった。嬉しかった」
風子さんの手が僕の頬に触れる。いや、そう見えるだけ。実際には触れられていない。
「あなたは初めて会った時からそうだった。私の歌を受け入れてくれた。真剣に聴いてくれた。……愛して、くれました」
なぜなら、彼女は風だから。風に、触れることは出来ないから。
「あなたが、私のことだけを思い続けてくれるなら、再び会えることができるかもしれない。言い伝えが本当なら、私たちは同じ風になれる」
僕は彼女に、何を言ってあげればいいのだろうか? どんな言葉も、価値が無くなってしまうような気がした。唇を噛み締める。
「でも、私はあなたを縛り付けたくない。あなたは自由であって欲しい。私があなたのことを思っていられれば、それでいいの。どうか、幸せな一生を過ごして?」
僕は首を横に振る。それは間違っている、それでは意味が無い、という意図を伝えたかった。
彼女は目を細めて、やさしく微笑んだ。
「そろそろ、時間かな」
今の僕に、この想いを伝える術がないのなら。言葉で表せられないのなら。
「私はシルフィードで良かった。あなたという人に出会えたのだから……」
行動で、結果で、彼女に教えてあげるしかない。
「ありがとう」
両腕を回して、形だけでも彼女を抱きしめようとした。だが、既に彼女はそこにいなかった。
一陣の風が通り抜ける。
彼女の歌が、聞こえた気がした。
3
その後、五十数年という時を独りで迎えた。
風子さんの言葉を信じて、彼女のことだけを考えて。
年老いた身体に鞭を打って、お寺の裏側にやってきた。
あの時、初めて彼女の歌を聞いた場所。あの時、何も言えぬまま彼女と別れた場所。お寺の裏側の崖を見下ろす。
彼女と出会ったことは、幻だったのではないかと悩む日もあった。が、それでも彼女の存在をひたすらに信じた。
頭の中には詳細なイメージが残っていない。記憶は曖昧で、正直なところ、彼女がどんな笑顔をしていたのかすら、覚えていない。しかし、記憶は曖昧になっても、想いは色褪せない。あの時に得た感情を、忘れることはない。
あの歌声に出会えた時の感動。彼女と会話した時の楽しさ。笑顔を見れた時の安らぎ。彼女と別れた時の悲しみ。
あの時と変わらぬ想いを持って、僕は問いかける。
「君は今でも、僕のことを想っていますか?」
正面に君がいることを信じて、言ってみた。
まるで、返事をする様に、風が吹いた。
そっと抱きしめてくれるような、やさしい風だった。
これは、そう。
僕が、人から風になれた時のお話だ。